分類:ハサミゲージ概説

ハサミゲージの歴史から

ハサミゲージの製作技術は、欧米からの移入技術であったろうと推測されるのだが、国内でのその始まりというものは確定できない。
私らが伝承として聞き及んでいるその歴史は、大阪陸軍造兵敞及びそこに繋がるゲージ・メーカー、あるいは、呉海軍造兵敞及びそれに繋がるゲージ・メーカーでの話であって、大阪では小径用のハサミゲージが、広島では艦船のエンジン周りの大径用限界ゲージが主力生産品であったらしいのだが、艦船の製造が完了すれば仕事を求めて広島から大阪へ人が移動するということもあって、ゲージの製作技術が混和し・新たな展開を踏んで行ったとされている。
手で扱える大きさ(基準寸法で100mm以下)のハサミゲージはハンドラップ仕立てで製作されるのだが、手で扱いきれない大きさの長尺ものは箱バイスで固定しての砥石仕上げになる。技能的にはこの両者の違いというのは決定的な意味を持つが、戦後においてはその両方の技能を修得するというのが基本となっている。
陸海軍の造兵敞という所が起点となって、例えば大阪陸軍造兵敞では『武用(「ぶよう」さんと呼び習わされていた方なのだが、「たけもち」さんと呼ぶのが正しい)』氏がゲージ工の育成に当たられたという。つまり、組織的・統一的に職工が育成されていたわけで、各軍需工場に徴用されてゲージ製作を担った徴用工も含めて、ゲージ製作の「標準的な技能」というものが確立し普及したのだった。もちろん、ゲージの仕立て上げ技能であるハンドラップ技能についていえば、「他の可能性」というものは十分に検討されたはずだったのだが、結局のところ、鋳物製ラップ工具+ラップ砥粒+ラップ油という、修得するに比較的容易で、素材等も入手しやすく、道具類の製作も簡便であるという事情から、この方式が一般的・標準的・基本的な製作技法として定着したのだった。
戦中には既にゲージ製造の専業メーカーというものが存立できていたのであって、その中で『(株)郷原精機製作所』の存在というものは、ゲージの製作の歴史を語る場合には等閑には出来ない。現在、関西(大阪)のゲージ・メーカーでここをルーツとする所が大きな比重を占めている。

「挟範」という言葉があるのだが、これは、「挟」使う寸法規「範」という意味で、言い替えればハサミゲージのことである。単純簡明な漢語表現に置き換えるということはエンジニアリングの世界ではむしろ当たり前なことだったのだろうが、例えば熱処理用語で「焼準」といわれた場合、何を意味しているタームであるかが直ぐには分からない。業界用語なのか職人世界の隠語であるのかというところなのだが、立派な技術用語なのである。それはともかく、社名に「○○挟範」とされている場合、「当社はハサミゲージ製作を主力の一つとするゲージメーカーです」ということが明示されているのだが、確かに、ゲージ屋の看板を掲げる限りは、ハサミゲージの製作は主要製作品の一つであった時代があったのである。しかしながら、事業という点から言えば、ゲージという種類に分別されるものであれば何でも幅広く受注したいという「フルライン・メーカー」であるという呼び掛けと、実際の自社製作品目の主力との「ずれ」が生じていくわけで、その「ずれ」を埋め合わせていくのが同業者へのアウトソースであった。
ネジゲージは、ネジゲージ研磨盤という専用の加工機が必要で、その仕上げができる技能者も極めて専門的な技能の持ち主でなければならず、外径用リングゲージや内径用栓ゲージ(プラグゲージ)の場合は円筒研削盤で仕立て上げるのだが、もちろん、その加工機の扱いに充分に習熟していないとまともなものは作れない。これらの機械力を活用して製作するべきゲージ分野と、徹底的に手業によって製作にあたるハサミゲージとでは、設備条件が全く異なり、生産効率もまた全く異なり、それぞれが得意な部門で特化していく傾向になるから、アウトソースということは必然的なことであった。

アウトソースということが拡がれば、そこでもたらされるものはハサミゲージ製作技法の「平準化」であった。