分類:手技と手業の世界観
「手技」と「手業」
「手技」というのは、作業者の身体動作をいう。それに対して、「手業」という場合は、作業者の精神作用を含めたものをいう。
どう違ってくるかと言えば、技能承継に際して作業者の動作を録画したりして、その動作を忠実に再現できれば「技」は承継できると考える立場がある。「学ぶ」ということは「真似ぶ」「真似る」ということだから、動作を精確にトレースできれば、同じような結果が実現できるというわけである。
しかしながら「言うは易く行うは難し」。なかなか思うようにはいかない。
一つの技能を詳細にわたってビデオ録画することから技能承継の試みが始まるといったことがなぜ本気で取り組まれたかと言えば、この点は作業者(熟練職人)の側にその責任がある。「技というものは、秘かに盗み見て盗み取るものである」と常日頃主張してきたわけだから、盗み見るのではなくて正面切ってビデオ録画しましょうという試みを拒否できるわけがない。「そんなことをしても技を承継することはできませんよ」と言えば良いのだが、気休め程度には記録しておく意味があるだろうから、敢えて拒否はしないでおくということになる。
技能の録画という場合、これこれの手順を追って順次作業を進めれば完成に至る、という「物語」が構成される。「こうすればああなる」「ああすればこうなる」といった因果の連関に基づくのだが、実際の作業というものは「こうしてもああはならない」「ああしてもこうはならない」という失敗の連鎖が付きまとうから、「なぜ、こうすればああなるのか?」「なぜ、ああすればこうなるのか?」という原因・理由の学習を伴わないと、肝要な「因果の連関」というものが修得しきれない。従って、技能の修得というものは、その技能を構成する原理的な因果の連鎖を学ばなければならないし、そうでなければ、膨大な失敗の例が生かされはしない。なぜ失敗したかが読み取れなければ、何をどう改善すべきかが分からなくなる。
「失敗から学ぶ」という、至極当然で常識的なOJTの方式ではあるのだが、何を見て(認識)、何をどう判断し(判断)、その結果を次の動作にどう修正・改善するか(認識と判断の結果を動作にどうフィード・バックさせるか)という事が、実は、熟練になる。「業」というものの本質はこの点に存している。
注目しなければならないことは、この「認識」「判断」「身体統御」は、一旦記憶されれば、ほとんど無意識のうちにも再現性を以て履践されるようになるということである。この感性が鈍いと、いつまでも同じ間違いを繰り返し、同じ失敗を繰り返して技に習熟しない。
技能承継が試みられる場合というのは、その技能が現時点では完成されたものであるという前提に立っている。或いは、不完全・不十分で改善すべき点がまだ多々存していると見られる場合でも、一旦は現状のレベルでの技能を承継して、その他の改善は承継後の努力課題であるということになっている。
技能の現時点の水準というものは、言い替えれば現時点での到達点ということだから、そこに至るまでのさまざまな試行や雑多な経験例というものを削ぎ落とした「上澄み部分」であると言える。その「上澄み部分」を承継させるということは、無意味と思われたさまざまな経験例や有害無益と評価した失敗例を黙殺してしまうことによって、最も効率よく最短距離で技能の完成態を全的に継承できる(はず)という配慮がなされていると言って良いのだが、なかなかそうは思い通りにはならない。
「何からどう始めるべきか?」という、いわゆる「端緒問題」がある。
例えばハサミゲージ製作の場合、その仕事の完成というのはゲージ測定部の「平面度」「平行度」「面粗度」の構成によって実現される「寸法精度」で判断されるのだが、それぞれの要素の実現を因果の連関に分解して個々の技能単位として修得していくのだが、一旦は分解される因果の連関を相互に結びつけていく「原理的なもの」は何かを考え合わせていかないと、個々の技能単位の修得が曖昧なものとなってしまう。分割されたものは統括されないといけない。
こういったことを踏まえないと、技能の承継がうまくいくはずもない。
「手技」というのは、作業者の身体動作をいう。それに対して、「手業」という場合は、作業者の精神作用を含めたものをいう。
どう違ってくるかと言えば、技能承継に際して作業者の動作を録画したりして、その動作を忠実に再現できれば「技」は承継できると考える立場がある。「学ぶ」ということは「真似ぶ」「真似る」ということだから、動作を精確にトレースできれば、同じような結果が実現できるというわけである。
しかしながら「言うは易く行うは難し」。なかなか思うようにはいかない。
一つの技能を詳細にわたってビデオ録画することから技能承継の試みが始まるといったことがなぜ本気で取り組まれたかと言えば、この点は作業者(熟練職人)の側にその責任がある。「技というものは、秘かに盗み見て盗み取るものである」と常日頃主張してきたわけだから、盗み見るのではなくて正面切ってビデオ録画しましょうという試みを拒否できるわけがない。「そんなことをしても技を承継することはできませんよ」と言えば良いのだが、気休め程度には記録しておく意味があるだろうから、敢えて拒否はしないでおくということになる。
技能の録画という場合、これこれの手順を追って順次作業を進めれば完成に至る、という「物語」が構成される。「こうすればああなる」「ああすればこうなる」といった因果の連関に基づくのだが、実際の作業というものは「こうしてもああはならない」「ああしてもこうはならない」という失敗の連鎖が付きまとうから、「なぜ、こうすればああなるのか?」「なぜ、ああすればこうなるのか?」という原因・理由の学習を伴わないと、肝要な「因果の連関」というものが修得しきれない。従って、技能の修得というものは、その技能を構成する原理的な因果の連鎖を学ばなければならないし、そうでなければ、膨大な失敗の例が生かされはしない。なぜ失敗したかが読み取れなければ、何をどう改善すべきかが分からなくなる。
「失敗から学ぶ」という、至極当然で常識的なOJTの方式ではあるのだが、何を見て(認識)、何をどう判断し(判断)、その結果を次の動作にどう修正・改善するか(認識と判断の結果を動作にどうフィード・バックさせるか)という事が、実は、熟練になる。「業」というものの本質はこの点に存している。
注目しなければならないことは、この「認識」「判断」「身体統御」は、一旦記憶されれば、ほとんど無意識のうちにも再現性を以て履践されるようになるということである。この感性が鈍いと、いつまでも同じ間違いを繰り返し、同じ失敗を繰り返して技に習熟しない。
技能承継が試みられる場合というのは、その技能が現時点では完成されたものであるという前提に立っている。或いは、不完全・不十分で改善すべき点がまだ多々存していると見られる場合でも、一旦は現状のレベルでの技能を承継して、その他の改善は承継後の努力課題であるということになっている。
技能の現時点の水準というものは、言い替えれば現時点での到達点ということだから、そこに至るまでのさまざまな試行や雑多な経験例というものを削ぎ落とした「上澄み部分」であると言える。その「上澄み部分」を承継させるということは、無意味と思われたさまざまな経験例や有害無益と評価した失敗例を黙殺してしまうことによって、最も効率よく最短距離で技能の完成態を全的に継承できる(はず)という配慮がなされていると言って良いのだが、なかなかそうは思い通りにはならない。
「何からどう始めるべきか?」という、いわゆる「端緒問題」がある。
例えばハサミゲージ製作の場合、その仕事の完成というのはゲージ測定部の「平面度」「平行度」「面粗度」の構成によって実現される「寸法精度」で判断されるのだが、それぞれの要素の実現を因果の連関に分解して個々の技能単位として修得していくのだが、一旦は分解される因果の連関を相互に結びつけていく「原理的なもの」は何かを考え合わせていかないと、個々の技能単位の修得が曖昧なものとなってしまう。分割されたものは統括されないといけない。
こういったことを踏まえないと、技能の承継がうまくいくはずもない。