分類:ハンドラップ技法について

ラップ技法の2つの方式

標準的なラップ技能は、鋳物製ラップ工具+ラップ油+ラップ砥粒という組み合わせでの「遊離砥粒ラップ/湿式」という方式に拠る。

ラップ由として用いられるのは、灯油、スピンドル油、マシン油、あるいはこれらの混和油であるのが一般的で、ラップ砥粒はWAが採用される。

それに対して、cBN砥石をラップ工具とする場合の「固定砥粒ラップ/乾式」の方式では、ラップ油とラップ砥粒は使わないから、cBN砥石がラップ工具としての充分な効用を発揮すべき「目立て」の点に重点が置かれる。
ラップの加工動作は先に述べたWA砥石による「砥石ラップ」の技法と全く同じなものであるから、何か特殊な技能が付加されるわけではない。

「遊離砥粒ラップ/湿式」の技法がほとんど唯一のラップ技法とされてきたかは一つの論点であって、焼き入れしたSK工具鋼に対してWAラップ砥粒は充分に効率的なラップでの仕立て上げを実現するものであるから、敢えて他の方式の採否を検討するまでもないということであったし、ラップ砥粒にダイヤモンド砥粒を採用することを考えると、この技能方式が汎用的であると考えられたのも無理はない。

現在に至っては「仮説」の域を出ないのであるが、ハンドラップ技法がゲージ製作の技術・技能として移入され、戦時生産体制の下で大量の技能者を育成しなければならなくなった時、遊離砥粒ラップ/湿式の技法は、習得するに容易で、結果品質の判定が明確なこの技法が系統的に採用されたのは必然的であった。
従って、現在では「遊離砥粒ラップ/湿式」か「固定砥粒ラップ/乾式」かが並列的な二者択一の関係にあるかのように説明されるのだが、その歴史的な位相を異にしているものであることは注意しなければならない。
「遊離砥粒ラップ/湿式」の技法から「固定砥粒ラップ/乾式」への技法の転換は、何らかの歴史の進展を反映しているものだという見方ができるのであって、例えば、cBN砥石が製作され一般的な汎用商品として供給され始めたのは最近のことであって、従って、「固定砥粒ラップ/乾式」の技法を確立させて、それによって「鏡面ラップ」まで到達することのできる技法であることが証明できたということは、「遊離砥粒ら@っp@う/湿式」の技法の「限界」を超克することが出来るということを意味している。
つまり、遊離砥粒ラップ/湿式の技法というのは、ラップ工具面上にラップ砥粒がラップ油膜層に包み込まれて作動するのだが、ラップ油膜の介在によってラップ砥粒が転動しワーク表面に対してラップ力が発揮される。この場合に、ラップ工具が動作する際の工具表面のワーク表面に対する当たり方というのは、ラップ油層の厚みとラップ砥粒の粒径というものが介在するから、どのようにラップ加工が進展しているかがラップ工具表面の動作からは一義的ではなくなり、曖昧なことにならざるを得ない。この「曖昧さ」を解消するべきがラップ技能者の熟練が求められる技能のテーマになるのだが、この点はこの技法に必然的に伴うものだから、完璧な解消というためにはこの技法を乗り越えなければならない。
遊離砥粒ラップ/湿式の技法で実現できるワーク面のレベルというものは、従って、ある程度の制約を免れない。しかしながら、世間が要求する精度レベルはいっそう高められていくから、固定砥粒ラップ/乾式という技法が従前技法よりもより高度なラップ技法となるという指摘が、特に研磨材メーカー等からなされるようになっている。
固定砥粒ラップ/乾式の技法では、その原理的に、ラップ油膜層の厚みとかラップ砥粒の粒径といった曖昧さ要因は無縁であり、ラップ工具表面が直接的にワーク表面に対してラップ加工動作をするものであるから、ラップ工具表面のコントロールが直接にラップ加工力に反映される。このことによって、固定砥粒ラップ/乾式の技法上での「優位性」が強く主張されて来ているのである。

一般論として、固定砥粒ラップ/乾式の「泣き所」というのは、ラップ滓がラップ工具表面に固着してラップ効率を急速に減退させるものであるから、そのラップ滓の除却が煩瑣極まりないことになって、実務的ではない。あるいは、鋳物製ラップ工具の場合は、その工具表面の精密な仕立て上げと表面品質の維持という点で優れているのに対して、cBN砥石の場合であってもWA砥石と同様に直ぐに表面品質が崩壊してしまうだろうから、高精度なゲージの測定面の仕立て上げには不向きであろうと、こう考えられたのも無理はない。
cBN砥石とかボロン・カーバイト砥石というものが一般に市販されだしたのは、そう古い話ではない。

しかしながら、焼き入れたダイス鋼に対して遊離砥粒ラップ/湿式の技法ではほとんどまともな仕立て上げが出来ないという現実を前にして、cBN砥石による「固定砥粒ラップ/乾式」の技法に依らない限りは他に選択肢がないという結論に至るのであって、その方向での努力が求められるのである。