ハンドラップ技法について
1. ハンドラップの意義
ハンドラップというのは、右利きの作業者の場合、左手でワークを保持し、右手でラップ工具をワーク加工面に押し当ててラップ作業を行うことをいう。
現在に至ってはほとんど呼び習わされることはなくなっているのだが、歴史的には「陸軍式」と呼ばれてきた形式である。大阪陸軍造兵敞を中核としたゲージ製作において、銃火器製造に掛かる小寸法のゲージが多く製作された時代の製作スタイルであった(他に、「海軍式」という製作スタイルがあったのである)。
手作業で行うために「ハンド」ラップといい、これに対してラップ盤等の機械力を利用して行うラップ加工を「機械ラップ」と便宜的に言い習わしている。
概念的には、一つの平面に対して、その平面が持つ加工痕や表面凹凸を消去する作業については、その表面を「磨く」という作業を意味するから「研磨」といい、これに対して、その平面の仕立て上がりが例えば何らかの基準面からの寸法的な隔たりが求められるような加工の場合を「ラップ」という。
従って、「研磨」の場合は、その加工面の「捻れ」「曲がり」「反り」等の問題よりも「平滑さ」が主に求められる場合と言えるのに対して、ラップの場合は仕立て上がりの「平面度」というものが寸法絡みで求められる。従って、ラップ加工は研磨加工に対していっそう上位な加工レベルであると言える。
2. ラップ技法の位置付け
ハサミゲージの製作工程においては、仕立て上げるべき寸法に対して概ね0.02mm手前まで「箱バイス」を使ってWA砥石で研削し、残りの部分が「仕上げ代」になる。
この0.02mmの「仕上げ代」によって、仕立て上げ面(ハサミゲージ測定部面)の「倒れ」や「捻れ」、「丸み」といった事象を解消して平面と寸法とを仕立て上げるのだが、この「仕上げ代」ができるだけ小さく抑制できると、全体としての仕上げ効率が良くなる。他方、「仕上げ代」が足りないと、ゲージの仕立て上げに際して寸法が製作公差から逸脱してしまうから、ぎりぎりまでゲージの「仕上げ代」を小さくすると却って仕上げに手間取ってしまう。
従って、一応は充分な「仕上げ代」を残しながら、いかに手早く、効率的にその「仕上げ代」分を除却できるかということを考えた方が実務的だと言える。
そこで、「箱バイス」で0.02mm残したものを、つまり、#600程度のWA砥石で下仕上げした状態のものを、#1200程度のWA砥石でいわゆる「砥石ラップ」で0.003~0.005mmまで仕上げ代分を研磨する。
「砥石ラップ」というのは、別のところで説明している「固定砥粒ラップ/乾式」の原理と同じ加工原理であって、特徴的には、#600程度で下仕上げされたワーク面に対して、#1200のWA砥石でラップするところから、一つには、加工面がかなり平滑になり、面の「倒れ」「捻れ」「丸み」といった事象をかなりの程度改善される。二つには、手(指先)による加圧力によって研磨作業がなされるところから、表面凹凸の出方が小さい、・・・といった利点があるのだが、何よりもの利点は、加工能力が「遊離砥粒ラップ/湿式」よりも遙かに大きなことである。
この考え方は、ハサミゲージ製作の原則的な実務作業であると言って良く、「遊離砥粒ラップ/湿式」でも「固定砥粒ラップ/乾式」でも、仕立て上げるべき寸法に対する仕上げ代が3~5μmのところから行使される技法なのであって、そこに至るまでの加工技法についてはいろいろと工夫されて良い問題である。
3. 「砥石ラップ」の意義
「砥石ラップ」という名辞は、勿論、言うまでもなく、固定砥粒ラップ」そのものであるのだが、①WA砥石を使ったものである、従って、②SK工具鋼製ゲージに対するラップ工具でありラップ技法である、しかしながら、③そのままではハサミゲージとして必要とされる面粗度や平面度が実現できるものとはならない、というものである。
実際の工具の作り方は左欄に写真を掲載しておくが、①WA砥石としては、砥粒粒度は#1200が最も妥当なようで、#600程度だと平面度等が劣悪になり、#1200よりも微細なものとなると目詰まりが激しくて持続的なラップ作業が難しくなる。砥石硬度はRH80程度の固めの砥石を使う。
普通の場合、焼き入れ鋼に対してはRH60前後の砥石硬度が妥当とされているのだが、WA砥石のラップ力というのは、砥石表面から剥離したWA砥粒が実質的に「遊離砥粒ラップ/湿式」の作用を発揮するということに基づくものであるから、砥石表面の平面度が直ぐに崩壊していってしまう。そのため、ある程度の砥石硬度が必要なのだが、過度に硬度が高いものは切り込み力に欠けることになる(遊離砥粒分として砥石表面から剥離してくるWA砥粒が過少になってしまう)。
砥石ラップの工程というのは、作業効率の向上を目指すものであるのだが、砥石の目詰まりの解消、砥石表面の崩壊の是正としての砥石目立て、といった作業を伴う。
つまり、砥石表面がどのように仕立て上げられていなければならないかを不断にに意識しないといけない作業であるから、ラップ技能を修得していく際の準備コースだとも言える。
#1200の砥石ラップで寸法を仕立て上げることができれば、言い替えると、寸法だけが問われる場合であれば、±2μm程度の曖昧さは付きまとうことになるのだが、それで出来てしまうという話になる。
砥石ラップと、遊離砥粒ラップ/湿式という正規なハサミゲージの仕立て上げ技能で制作されたものとの違いが、前者では砥石砥粒の研磨痕が残るのに対して、後者では、技法特有のラップ痕になって特有の「艶」が発現してくる。
技法の違いというのは一目瞭然なのである。
なお、「ハンド・ラッパー」として、ボロン・カーバイト砥石を使ったラップ工具が一般市販されている。焼き入れしたSK工具鋼に対してのラップ能力は、WA砥石の場合よりも卓越しているとは評価できないので、従って、私自身としてはラップ目的には使えない。ラップ用途として具体的にどういう使い方があるのか、よく分からないものである。
ただ、ボロン・カーバイト砥石は別に説明することになるが、砥石の成形には極めて有効である。
4. ラップ技法の2つの方式
標準的なラップ技能は、鋳物製ラップ工具+ラップ油+ラップ砥粒という組み合わせでの「遊離砥粒ラップ/湿式」という方式に拠る。
ラップ由として用いられるのは、灯油、スピンドル油、マシン油、あるいはこれらの混和油であるのが一般的で、ラップ砥粒はWAが採用される。
それに対して、cBN砥石をラップ工具とする場合の「固定砥粒ラップ/乾式」の方式では、ラップ油とラップ砥粒は使わないから、cBN砥石がラップ工具としての充分な効用を発揮すべき「目立て」の点に重点が置かれる。
ラップの加工動作は先に述べたWA砥石による「砥石ラップ」の技法と全く同じなものであるから、何か特殊な技能が付加されるわけではない。
「遊離砥粒ラップ/湿式」の技法がほとんど唯一のラップ技法とされてきたかは一つの論点であって、焼き入れしたSK工具鋼に対してWAラップ砥粒は充分に効率的なラップでの仕立て上げを実現するものであるから、敢えて他の方式の採否を検討するまでもないということであったし、ラップ砥粒にダイヤモンド砥粒を採用することを考えると、この技能方式が汎用的であると考えられたのも無理はない。
現在に至っては「仮説」の域を出ないのであるが、ハンドラップ技法がゲージ製作の技術・技能として移入され、戦時生産体制の下で大量の技能者を育成しなければならなくなった時、遊離砥粒ラップ/湿式の技法は、習得するに容易で、結果品質の判定が明確なこの技法が系統的に採用されたのは必然的であった。
従って、現在では「遊離砥粒ラップ/湿式」か「固定砥粒ラップ/乾式」かが並列的な二者択一の関係にあるかのように説明されるのだが、その歴史的な位相を異にしているものであることは注意しなければならない。
「遊離砥粒ラップ/湿式」の技法から「固定砥粒ラップ/乾式」への技法の転換は、何らかの歴史の進展を反映しているものだという見方ができるのであって、例えば、cBN砥石が製作され一般的な汎用商品として供給され始めたのは最近のことであって、従って、「固定砥粒ラップ/乾式」の技法を確立させて、それによって「鏡面ラップ」まで到達することのできる技法であることが証明できたということは、「遊離砥粒ら@っp@う/湿式」の技法の「限界」を超克することが出来るということを意味している。
つまり、遊離砥粒ラップ/湿式の技法というのは、ラップ工具面上にラップ砥粒がラップ油膜層に包み込まれて作動するのだが、ラップ油膜の介在によってラップ砥粒が転動しワーク表面に対してラップ力が発揮される。この場合に、ラップ工具が動作する際の工具表面のワーク表面に対する当たり方というのは、ラップ油層の厚みとラップ砥粒の粒径というものが介在するから、どのようにラップ加工が進展しているかがラップ工具表面の動作からは一義的ではなくなり、曖昧なことにならざるを得ない。この「曖昧さ」を解消するべきがラップ技能者の熟練が求められる技能のテーマになるのだが、この点はこの技法に必然的に伴うものだから、完璧な解消というためにはこの技法を乗り越えなければならない。
遊離砥粒ラップ/湿式の技法で実現できるワーク面のレベルというものは、従って、ある程度の制約を免れない。しかしながら、世間が要求する精度レベルはいっそう高められていくから、固定砥粒ラップ/乾式という技法が従前技法よりもより高度なラップ技法となるという指摘が、特に研磨材メーカー等からなされるようになっている。
固定砥粒ラップ/乾式の技法では、その原理的に、ラップ油膜層の厚みとかラップ砥粒の粒径といった曖昧さ要因は無縁であり、ラップ工具表面が直接的にワーク表面に対してラップ加工動作をするものであるから、ラップ工具表面のコントロールが直接にラップ加工力に反映される。このことによって、固定砥粒ラップ/乾式の技法上での「優位性」が強く主張されて来ているのである。
一般論として、固定砥粒ラップ/乾式の「泣き所」というのは、ラップ滓がラップ工具表面に固着してラップ効率を急速に減退させるものであるから、そのラップ滓の除却が煩瑣極まりないことになって、実務的ではない。あるいは、鋳物製ラップ工具の場合は、その工具表面の精密な仕立て上げと表面品質の維持という点で優れているのに対して、cBN砥石の場合であってもWA砥石と同様に直ぐに表面品質が崩壊してしまうだろうから、高精度なゲージの測定面の仕立て上げには不向きであろうと、こう考えられたのも無理はない。
cBN砥石とかボロン・カーバイト砥石というものが一般に市販されだしたのは、そう古い話ではない。
しかしながら、焼き入れたダイス鋼に対して遊離砥粒ラップ/湿式の技法ではほとんどまともな仕立て上げが出来ないという現実を前にして、cBN砥石による「固定砥粒ラップ/乾式」の技法に依らない限りは他に選択肢がないという結論に至るのであって、その方向での努力が求められるのである。
5. 機械ラップとの違い
「ハンドラップ」という技法は、左手でワークを保持し、右手でラップ工具を操作して、ラップ加工を行うという形が原則である。
それに対して、ラップ工具であるラップ定盤を据え置いて、その上面でワーク面を滑らせるようにラップ加工を行うといういわゆる「定盤ラップ」という技法が対称形としてある。「定盤ラップ」という技法は、いわゆる「機械ラップ」の手業版であって、原理的に変わる点はない。従って、「定盤ラップ」の技法をベースにして機械ラップの技法が発展してきたとみなしたいところであるが、事実関係としてはそういうはずもなくて、ブロックゲージラップ盤というラップシステムが一般化したものと考えるべきなのかも知れない。
それぞれのラップ技法の源流を遡るということは、今となっては困難なことなのかも知れないのだが、ラップ目的の具体的な有り様に相即して、最も有利な技法が選択されるべきと考えるならば、複数の選択肢が予め準備されているに越したことはない。
機械ラップの場合は、ワークの「内側」を精密にラップするということができない。あくまでも「外側」のラップにのみ対応できるものである。
同時に、ラップ盤を回転させてラップするという形式の場合、ラップ盤が均等の加圧力をワークに掛けるためには複数個のワークをセットしなければならず、単品対応はまず不可能である。もっとも、機械ラップは大量生産のためのものだから、単品対応は考慮外におかれて然るべしという側面は確かにある。
これに対して、ハンドラップは徹底した単品対応のための技法であるから、機械ラップとは次元が異なるものである。従って、ハンドラップでのみ製作出来るワークというものの機械化はまず不可能なのである。
もっとも、ハサミゲージの製作においてもその「機械化」は構想されたことはあったのである。それは、概念的にいうと、鋳鉄製のホイールを回転させて、その回転面にハサミゲージの測定部を押し当ててラップさせるというものであったのだが、実際にそういうシステムのプロトタイプでも用意されたのかどうかは不明ではある。
ラップ・ホイールに均等・均一にラップ油とラップ砥粒を塗布できるかどうか、回転するホールにワークを均等・均一な力で押し当てることがどうか、といった問題は当然なのだが、こういうシステムの場合、回転するホールの外周と内周との周速度の差というものがもたらすラップ結果の不均等さを解消することができないという致命的な欠陥が存するのである。
ラップの「機械化」をどうこうと考えている間に、ハンドラップで仕事がどんどん出来ていくということだから、ハサミゲージ製作での「機械化」努力という話は余り聞いたことがない。
ハンドラップの場合、ワーク面に対する加圧力がさほどには大きくないことから、目詰まりしたラップ滓の除却は、例えば、紙でラップ工具を払拭するといったことだけでできてしまう。cBN砥石での固定砥粒ラップのラップ工具としては、その「目立て」に際して砥石表面の凹凸を小さくすることで、ラップ滓が工具表面に奥深く固着するということを防げるから、砥石のラップ力が持続される。
6. ハンドラップ技能の到達世界
何も考えずに従前技法を墨守していたなら、つまり、WA#3000遊離砥粒+鋳物製ラップ工具+ラップ油の道具立てにとどまっていたならば、これはこれでJISの規定要件を充足するハサミゲージが製作出来る。
しかしながら、ハンドラップ技能という作業者の身体能力に基づいてどこまでの加工品質が実現できるか?という点を考えると、実際には、ハサミゲージの製作品質というものはその製作の道具立てに制約されたものであって、作業者の身体能力というものはいっそう射程距離の大きなものではないのか?という考えに行き着く。
つまり、ハンドラップというラップ技能が道具立ての使いこなし技能にとどまるならば、その道具立てに制約があった場合、その使いこなし技能というものはおおよそ限定されたものに終始する。「こんな程度な道具立てに執着している限りは、ハンドラップ技能はこんな程度なものでしかなりようがない」ということである。
歴史的に見れば、例えば鋳物製ラップ工具というものの採用は、取り敢えずは結果が出せる道具であって、取り敢えずは使いこなせる道具であって、という理由から始まったものであって、そこから鋳物製でなければならないという思い込みが広まったものでしかなくて、他に適切な工具素材があり得るという可能性を排除したものではなかったはずなのである。
その点から見直し作業が始まったのだが、「常識を疑え!」といった空疎なスローガンを掲げたわけではなくて、鋳物製ラップ工具が広く採用されてきた理由というものを考え、その原理を他に実現できる素材を探し求めて、その適否を鋳物製ラップ工具との比較に基づいて判定するという作業を繰り返したのだった。
従前以来の道具立てでは、一つには、#6000以上に微細なラップ砥粒が使えない、#3000のWA砥粒でのラップではSK3という工具鋼に対しては非常に仕立て上げに苦労させられる、ということがあって、従って、こういった点を乗り越えられる道具立てが求められたのだった。
あれやこれやの経緯があっての話だが、最終的には、ラップ工具として人白砥石を使えば解決でき、焼き入れをしたSK工具鋼については、#6000~#10000のラップ砥粒についてはGC砥粒が有効であり、ダイヤモンド砥粒を採用する場合は0.1~2.0μm粒径のものであれば問題は生じない。人白砥石というものはそれだけの潜勢力を発揮するべきものなのである。
人白砥石は、アルカンサス砥石の代替砥石として開発されたものであるらしいのだが、だから、アルカンサス砥石を使って構わないということになりそうなのだが、必ずしもそう言い切れないところが面白いところではある。
要するに、ハンドラップの技能についての従前の制約条件というものは取っ払われてしまうわけで、結果、ナノ・レベルのラップ加工面粗度が実現できる技能として再構築される。
従前技法つまり遊離砥粒ラップ/湿式の技法のこの到達点を固定砥粒ラップ/乾式に移したのがcBN砥石をラップ工具とする技法で、このことによって、ハンドラップ技能のワーク材質面における制約は乗り越えられたのだった。ハイスや超硬に対しても困難さは生じない。
ゲージ屋の場合、「そこまでの加工レベルは要らない」ということなのであって、それでは、何のためにそこまで頑張ったかというと、ハンドラップ技能というものの「日常化」のためにある。
ハンドラップ技能という手業の加工技能はそこまでの射程距離をクリアするものであるということを証明すれば、そしてその修得が旧前とは比較にならないくらいに容易な技能であるということであれば、ラップ技能を修得するという熟練の意味が変わってくるだろうと思うのである。